明治を創った幕府の天才たち 蕃書調所の研究 2020年10月30日


致遠館に集った学生たち、いわゆる「フルベッキ群像写真」(中略)フルベッキの給料は年間1000両であったと言われている。この金額は今で言えば年棒10億円くらいの破格なものであった。だから、大隈重信はフルベッキの一番弟子であった。この事実が重要である(※のちにフルベッキの通訳となり、三菱に対する政府の保護政策推進したのが参議兼大蔵卿の大隈重信。またイギリス公使ハリー・パークスとも対峙)。(中略)岩倉具視(1825〜1888)の息子の岩倉具定(1852〜1910)と具経(1853〜1890)が致遠館でフルベッキから直接英語を学んだ関係もあって、フルベッキは岩倉の顧問格に(中略)五代友厚(1836〜1885年)も大隈の屋敷に入り浸っていた(中略)五代を引き立てたのは、やはり薩摩藩家老であった小松帯刀(中略)(※五代は)西周(1829〜1897)たちと、フリーメイソンの会員として、共同して、日本の将来像を話し合っている。(中略)五代は1885(明治18)年に50歳で早死に(中略)北海道開拓使官有物払下げ事件が起きた。この時は、官有物をただ同然で払い下げてもらう側に五代、それに反対する側に大隈が(中略)五代友厚は、長崎時代から深い付き合いのトーマス・グラバーの仲介で、香港造幣局で使われなくなっていたイギリスの造幣機械6万両(6万ドル)で買い入れる契約を結んだ(1868年)。この機械に刻印されていたのが中国で使われていた「(ユアン)圓(円)」という貨幣単位を示す漢字であり、これがそのまま明治日本の新しい通貨単位となった。五代友厚は造幣寮(後に造幣局)の大阪での建設が決定すると、辞職して実業界に飛び込んだ。彼が実業の世界に入った1869年にまず作ったのが、金銀分析所であった。五代は、この金銀分析所で明治新政府による新しい貨幣の製造に合わせて、これまでの金貨や銀貨を正貨、贋金を問わず全国から買い集め、その内容物を分析し、それぞれを融かし、純度の高い金属の塊(のべ棒)にして、造幣局におさめるという事業を行った。これは五代の独占事業であり、巨利を得ることになった。また、五代友厚は貴金属の確保を進めるために、既に見つかっていた全国の金・銀・銅の鉱山経営に自ら乗り出した。それらを管理するために、大阪に本部機能を持つ弘成館を設立した。五代は日本の新しい通過、円の原料を押さえてしまった。これで巨万の富を得て、大阪での地歩を固めた。(中略)五代友厚については、今でもその人となりは、出身地の鹿児島でも知られていない。

上述の岩倉具視一族の子息に嫁がれたのが女優の井川遥氏。五代友厚についての人となりが不明なのはなぜなのでしょうか?